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【本】 ニーチェの命日に。

2008.08.28 Thursday

一昨日は、我が愛しのフリードリヒの命日でした。今から108年前の、1900年8月25日、フリードリヒ・ニーチェはドイツのワイマールにて没。

ニーチェの命日、と言っても、自分の誕生日すらうっかり忘れてしまったり、付き合っていた人の誕生日も覚えられず全然違う日に「お誕生日おめでとー」と電話した過去を何度かもつ私なので、ニーチェの命日を私がいつも覚えているわけではないのですが。ついでに言いますと、覚えられないんじゃなくて、覚える気がない、ってだけなんです……。記念日とか、行事とか、それほど興味がなく。っていうか、その日だけ特別っていうのが、イヤだったんです。どうせ特別扱いするなら、その日だけじゃなくて毎日特別扱いすべきじゃない? どうしてその日だけなのよ?! それじゃあ愛してるって言わないじゃないっ! みたいな(笑)。でも大人になるといろいろと忙しいので、記念日って大切だなぁ、と最近は思うようになりました。だってそのときだけでいーんだもんね。大人の知恵だわ。ほほほ。


その日がニーチェの命日だと知ったのは、哲学科時代の友人が、ニーチェについて書かれた日経新聞のコラムを教えてくれたから。

よく知られているように、ニーチェは晩年、精神錯乱に陥りました。発狂したのが、1889年1月3日。トリノにいたニーチェは、鞭に打たれていた馬に駆け寄りその馬を抱きしめて泣き崩れ、そのまま昏睡状態に陥ったと伝えられています。1900年8月25日にワイマールで亡くなるまで、その10年あまり、母親に、その後は妹に見守られて過しました。

そんな発狂後のニーチェについて、哲学者・木田元氏が、日経新聞のコラムで以下のように書いています(日経新聞 8月26日の夕刊より)。

(ニーチェの)母親が知人の家を訪ねようとすると、まるで子どものようにニーチェが後を追ってくるので、彼女は彼をその家のピアノの前に坐らせ、いくつかの和音を弾いて聴かせる。すると彼は、何時間でもそれを即興で変奏しつづける。その音の聴こえるあいだ、母親は安心して知人と話ができたという。


ピアノの鍵盤を叩きながら、和音に耳を傾けながら、そのヴァリエーションを楽しみながら、ニーチェは何を思っていたのだろう、と思うのです。それまで旺盛な創作欲は衰えることを知らず、書いて書いて書いて書きまくってきた。何しろ発症直前まで、あの大傑作『この人を見よ』を書いていたのですから(これについては以前書きました→こちら)。意外と知られていないかもしれませんが、書くということは、考えるということとほぼイコールです。というか、考えるために書くと言ってもいいかもしれません。さらにニーチェにとっては、書くことは、闘うことでもありました。闘うって、何と? 常識と。世間と。世界と。自分と。

そんな闘いの戦士が、最後はピアノの音に、憩いの場を見出していた。彼の精神錯乱の原因はよくわかっていないようですが、結果的に、もう書くことも、考えることも、闘うことも止めてしまった彼の心象風景は、一体どんなものだったのでしょう。思うにそれは、意外と、おだやかで優しいきれいな風景だったのではないでしょうか。そしてそんなきれいな景色には、ピアノの音がよく似合うのです。



私も去年の今頃、ストレスで左耳の低音が聞こえなくなってしまい、めまいと不眠に襲われたとき、ただひたすらピアノを弾いていたことを思い出しました。というのも、そんな私を心配してくれた人が、カワイの電子ピアノをくれまして。ピアノを弾けば少しはストレス解消になるんじゃない? って。なんて優しい人なんでしょう……(泣)。でもその後、その人は、「巨大な電子グランドピアノ(分解可能&持ち運び可能タイプ)」という謎の物体をソッコー購入していたので、単に買い変えたかっただけか? という気もしなくはないですが(笑)。でも本当に、ピアノを弾くと、無心になれるんですよね。何も考えず、ただひたすら、鍵盤を叩くこと、音を聞くこと、それだけに集中することができる。そんなふうに無心になれる時間って、日常生活のなかにはあまりなかったりするんですよ。人って意外と、何かをしていても、絶えず頭のなかでブツブツしゃべっていたり、何かを考えていたりするものですから。

そんな脳内一人ブツブツ状態に疲れたときに、自分ができること。そういうものをもっているということは、想像以上に大切なことだと、最近しみじみ思うのです。何でもいいのですが、それを行うだけで楽しみを得られ、自分の心を慰めることができるもの。それには、以下の3つの条件がそろっていることが大切かなと、私なりに思っているのですが。

まず1つめは、努力がそれなりに必要で、創意工夫もそれなりに必要とされるもの。たとえば、あまりにも気軽に手を出せるもの(酒とかカラオケとかパチンコとか風俗とか買い物とか?)もいいかもしれませんが、それだけではかなり将来的に辛くなってくるのではないでしょうか。やっぱり人って、成長したいし、変化したいし、何かを作り出したいという欲望をもつ生き物だと思うので。だから、ほんのちょっとでも自分が変化したことが実感できるようなもの、何かをクリエイトできるようなもの。何かを行ったという充実感が得られるもの、適度な手ごたえのあるもの。そういうものがいいのではないかと思うのです(もちろん人の勝手ですけど…)。

2つめは、それを行うことによって楽しみを得る、それ以外の目的をもたないもの。たとえば受験や仕事や結婚や金儲けなど、そういった世俗の利益につながることではなくて、あくまでもそれを行うことだけに意味があり、それを行うことによって楽しみが得られるようなもの。だって、世俗のルールから離れて別世界でひと休みしたいからやってるっていうのに、そこでもまた世俗のルールが絡んできちゃったら、そこはもう心休まる場所ではなくなっちゃいますから……。ある意味で、「無責任に」自分が楽しめるもの。そういうものって、一見ムダなように思えるかもしれませんけど、いつか必ず自分を助けてくれるはずなのです。

3つめは、それを行うための素養があるていどあるもの。たとえば、私が今からフェンシングをやろうと思っても……、できると思いますけど、それを楽しむレベルに達するまでにかなりの年数が必要でしょう。ニーチェだって、幼い頃からピアノに親しんでいたからこそ、発狂した後もピアノを弾くことができたわけで。何事も一朝一夕というわけにいきませんから、あるていど自分に素養があるかどうかを把握することも大切かなと思いました。



ニーチェの話からちょっとズレてしまいましたが、でも、もし自分が精神に異常をきたすことがあったとして、それでも生きていかなくてはいけないとしたら、私は何をして心を慰めることができるのだろう? と思うのです。いや、精神に異常をきたすって、ニーチェのようなレベルではなくても、それほどあり得ないことではないですよね。人生って、本当に、何があるかわからない。たとえば私は、テレビで何かの事件を目にするたびに、その事件の周囲の人々の精神状態に思いをめぐらせてしまって、胸苦しい思いにかられるのです。被害者であろうが加害者であろうが、その周りの人々の受ける精神的打撃はいかほどだろうか、と。もちろんそんな事件でなくたって、ほんのちょっとの些細なことで、人は心身のバランスを崩すものですから。

そんな何が起こるかわらからない、長い人生を生きていくうえで、純粋に自分の心を慰めることができるものをもっていることは、想像以上に大切なことのように思うのです。それは何かの利益になったり、何かに直接役に立つものではないかもしれないけど、生きていく上でのちょっとした憩いの場を提供してくれる。長い長い上り階段の途中にある、ちょっとした小さな踊り場とか、ちょいと腰かけられる出窓とか、階段の途中にある扉を開けるとあらわれるダンスフロアのような。



精神に異常をきたした後のニーチェが、ピアノを弾いて心を慰めていたということ。そのことに、私自身が、心を慰められるような気がしました。愛しのフリードリヒに、心を慰める何かがあってよかった。書いて考えて闘うことは、彼にとって喜びでもあったかもしれないけど、苦しみでもあったはず。そういう意味で彼は、とても普通の人だったのかもしれません。だからこそ彼に、書いて考えて闘う以外の楽しみがあってよかった。そうでないと、あまりに辛すぎるもの。それまでさんざん闘って闘って、未来の私たちのぶんまで闘ってくれたんだから、晩年くらいおだやかな日々を送ったって、いいじゃない! 

そんなわけで、ショパンを(下手くそすぎるレベルで)弾きながら、フリードリヒを偲んだ私でした。(そんなピアノの譜面台には、ウメズのサインを安置中♪→こちら)。





◆ニーチェの音楽について。
 ・ニーチェが作曲した『マンフレート瞑想曲』(Manfred-Meditation)
 ダウンロードはこちら
 ・ニーチェの音楽作品について詳しいサイトは、こちら


◆以前、『この人を見よ』について書いた記事のリンク。
 「『この人を見よ』 フリードリヒ・ニーチェ


◆『ニーチェ・セレクション』(渡邊二郎・編/平凡社ライブラリー)より、以下抜粋。
ひとは残忍ということについて学び直し、目を開かなくてはならない。われわれが「より高次の文化」と呼ぶものはすべて、残忍を精神化し深化したところに成立してきている――これが私の命題である。(中略)この場合ももちろんひとは、残忍とは他人の苦悩を眺めるところに生ずるものだとしか教えることができなかった従来の愚劣な心理学を、追い払わねばならない。自分自身の苦悩、自分自身を苦しめるということにも、豊かな、あふれるほど豊かな楽しみがあるからである。(中略)最後に次の点をよく考慮してもらいたい。認識者でさえも、自分の精神を強制してむりやり、精神の性向に逆らって、また実にしばしば自分の心情の願望に逆らってまでも認識しようとするときには――つまり、肯定し愛し崇拝したいと思っているのに、否定を言うようなときには――、彼は、残忍の芸術家にして浄化変容者として君臨しているのであるという点である。すべてのものごとを深く根本的に突き止めるということがもうすでに、たえず仮象と皮相に向かおうとする精神の根本意志に対する暴行であり、嗜虐である。すべての認識欲のうちにもうすでに、一滴の残忍が含まれている。
(フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』より)



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