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【本】 『この人を見よ』 フリードリヒ・ニーチェ

2007.09.19 Wednesday

ちょっと前に触れたものの(こちら)、前置きが長すぎて本題に入れなかった、ニーチェの『この人を見よ』。

まず見るべきは、目次なんです。この目次を見るだけでも、この本の素晴らしさ、オモシロさ、奇天烈さ、狂おしさがご理解いただけるかと思うのです。




以下、目次です。
(以下の引用はすべて、新潮文庫『この人を見よ西尾幹二訳からの転記です)

序言
なぜ私はかくも賢明なのか
なぜ私はかくも怜悧なのか
なぜ私はかくも良い本を書くのか
なぜ私は一個の運命であるのか

ここで言う「私」とは、もちろん、著者であるニーチェ自身のこと。……ね? そこはかとなくサスペンスフルでデンジャラスなドラマが起こりそうな予感……がしますよね?(どんなドラマかは問わないでおくとして)

だとしたら、本書のタイトル『この人を見よ』の「この人」も、もちろん著者ニーチェ自身のことだって、わかるというものですよね。タイトルが既に「オレを見ろ」。スゴイ本じゃないでしょうか。そんな本、他にあったかしら? ちょっと考えてみましたが、にわかには思いつきませんでした(電波系トンデモ本は除く)。


そんな目次もタイトルもスゴイ本、『この人を見よ』ですが、内容ももちろんスゴイ。しょっぱなの序文の第一行目から、もう全速力ダッシュでこっちに向って走ってきます! 逃げて〜!
私の予測では、近いうちに、私はかつて人類に課せられた要求の中でも最も困難な要求を人類に突きつけなければならなくなる。それだけに、そもそも私が誰であるのかを言っておくことが、必要であるように思われる。こんなことは私が言わなくても、世間の方で知っていてよいことであろう

これが、序文の第一行目って。この傲慢ぶり。横柄ぶり。倣岸不遜ぶり。書店で何気なくページをめくってこの最初の一文(と目次)を目にした時の衝撃は、今でも忘れられません。巨大なモノリスがどこかの超新星の際に出来ちゃったブラックホールを通して突如、本屋さんにいる私の脳髄に命中したかと思いました(流れる音楽は、もちろん、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』でねー)。


『この人を見よ』は、シニカルで軽妙でピリリと毒の効いた箴言や名句に満ちているのですが、でもニーチェの名文を紹介するといっても、それは当たり前過ぎるくらい当たり前。ニーチェの素晴らしい名文をテーマ別に集めた『ニーチェ・セレクション』(平凡社ライブラリー)というアンソロジーもあることですし、ぜひこちらをお読みください(物凄く面白いです)。

一方、ここで私が注目したいのは、人生に苦悩した思想家ニーチェからのありがたいオコトバではありません。もちろん、それを否定するつもりは毛頭ありませんし、それどころか私もそういった格言や箴言は大好きなのですが、ニーチェの場合は、そこから何とも言えない香りを伴って立ち上ってくる可笑しみ、滑稽さ、とんでもなさ、そういったものこそが最大の魅力なのではないかと思うのです。

というわけで、ここで紹介したいのは、ニーチェの「笑える文章」です。こういう読み方が正しいかどうかは知りません。こういう見方が妥当かどうかは知りません。だけど、どうしたって、私、『この人を見よ』を読むたびに、笑いを抑えることができないんですもの……。

もちろん、笑いにもいろいろあります。噴き出しちゃったり、爆笑しちゃったり、ニヤリとしちゃったり。でも何よりもまず、心を動かされると、笑ってしまうんですよね、私は。笑いって、奥が深い。ただ表面的にオモシロ可笑しいだけじゃない。なんと言えばいいのか、何かのきっかけで心の中にある種のエネルギーが生まれたとき、それに耐え切れずに体内から吐き出されるもの、それが笑いなのではないでしょうか。

というわけで、ニーチェ『この人を見よ』における笑える文章を、ここに集めてみようと思いました。えーと、念のため言っておきますが、「ニーチェで笑おうだなんて、不遜で品性下劣なヤツめ!」と憤りを感じる方は、どうぞご遠慮くださいね。





何故か、自分が病気のために頭が乱れたり、体の器官がおかしくなったりすることなど断じてありえない!と言い張るニーチェ。
私を診察して熱があると確かめることができた者はついぞいない。ある医者は、私を神経病患者として扱って来たが、とうとう次のように言った。「間違えていました! 貴方の神経は何ともありません。私自身が神経質になっていただけです」と。
お医者さんも、もうこう言うしかなかったのでは……(同情)。



隣人愛とか同情などは、単に弱さやデカダンの一種に過ぎない、と言い放つニーチェ。
私の人間愛は、私が相手の身になって共感共苦する点にあるのではなく、相手に共感共苦しているそのことに私が耐え忍んでいる点にあるのである。
正直すぎる。。



罪の意識や後悔を感じるなぞ、愚か者のすることだ、と息巻くインモラリストのニーチェ。
なぜ私は他人より多く物事を知っているのであろうか? そもそもなぜ私はかくも怜悧なのであろうか? 私は問題でもないような問題については考察をめぐらしたことが一度もない。――私は自分を浪費しない人間なのだ。(中略)どの程度まで自分は「罪深い」人間かなどという問題は、まるっきり私の念頭に浮かんだことがない。それと同様に、良心の呵責とはいったい何かに対する、自分でも信頼している判断基準が、私にはない。それについて通例誰でも耳にしていることに即していえば、どうやら良心の呵責などはさして尊敬すべきものではなさそうに思える。
「良心の呵責ゼロ」の領域……。



完璧な芸術には「悪意」が絶対に必要、というスバラシい芸術論を披露するニーチェ。
叙情詩人というものの最高の概念を私に与えてくれたのは、ハインリヒ・ハイネである。(中略)彼に匹敵するほどの甘美でそして情熱的な音楽を見つけ出すことには、成功すまい。ハイネは神域にまで達した悪意というものを持っていた。この手の悪意を抜きにしては、私は完璧ということを考えることが出来ない。――私は人間や種族の価値を量るのに、いかに彼らが神と半人半獣神(サテュロス)とを必然的に切り離さないで理解する術を知っているかどうかという点を、尺度にしている。――それに、ハイネは何とみごとにドイツ語を操ることであろう! 後世の人はこうも言うと思う。ハイネとはドイツ語にかけてのずば抜けて第一級の芸術家であった、と。
芸術論からいきなりグイっと自己礼賛へ! この展開、シビレます。



読書し過ぎると自分では何も考えなくなるぞ、と言い切るニーチェ。
学者は要するに本をただ「あちこちひっくり返して調べる」だけで(中略)しまいには、自ら考えるという能力をすっかりなくしてしまう存在である。本をひっくり返していないときに、彼は何も考えていない。学者の場合は考えるといっても、何かの刺激(本で読んだ思想)に答えているだけである。(中略)――早朝、一日がしらじらと明け染める頃、あたり一面すがすがしく、自分の力も曙光と共に輝きを加えているとき、本を読むこと――これを私は悪徳と呼ぶ!
読書は悪徳(笑)! 新しい!



努力とか願望とか目的といった、あさましい近代的概念に唾を吐くニーチェ。
私は願いというものを持ったことがない。四十四歳を過ぎていながら、自分はまだ一度も名誉のために、女のために、お金のために苦労したことがないなどと言える人間が、私のほかに誰がいるだろうか。――といっても、名誉や女や金に私が無縁だった、というのではないのだ
このオチ、最高!



予言するニーチェ。
そのうちいつか、私の生き方や考え方を実践し、教育するような公共機関を設けることが必要となるであろう。
ニーチェ・インスティテュート、とか?(ちなみに、ゲーテ・インスティテュートはあります)



哲学という言葉も知らないような「普通一般の人々」を、心から愛するニーチェ。
彼らは私が何処へ行こうと、例えばこのトリノにおいても、私の姿を見掛けると、誰しもみな晴れやかで和やかな顔になるのである。これまで私が一番悪い気がしなかったことといえば、露店で葡萄の呼び売りをしている老婆が、売りものの葡萄の中から私のために最も甘い房を探し集めてくれないうちは、安心した顔を見せなかったことだった。哲学者たるものはざっとこれくらいにならなけりゃあ駄目である
おっしゃるとおりです。



ドイツ人の悪口となると、俄然、文章が冴えまくるニーチェ。
簡単に言うと、私の著作に慣れ親しむと、他の本にはもう我慢できなくなるのだ。哲学書などはその最たるものである。高貴でそしてデリケートな私の著作の世界に足を踏み入れることは、比類ない一つの特典である。――この特典に与かるためには、人は絶対にドイツ人であってはならない
ニーチェってドイツ語で本書いてるのに、ドイツ人読んじゃダメ! って。



最高の書物、それが私の著作だ、と言い切るニーチェ。
およそ私の本より以上に、矜持に満ちて、それでいて洗練された種類の書物がほかにあるなどとは、断じて思えない。(中略)このような書物を征服するには、繊細きわまる指と、大胆きわまる拳との、両方をもってせねばなるまい。魂に少しでも虚弱な処があったら、もう駄目だ。絶対に駄目である。消化不良の気味が少しあるだけで駄目なのである。
駄目の駄目押し。



道徳を重んじる善人な人々を、不埒な精神をもった虚言家、と呼ぶニーチェ。
私の著作の内容とは関わりになるまいと思っている人、例えば私の自称友人たちは、そういうときには「非個人的」になる。つまり、「ご本を出すまで」に再びなられてお目出度うございます――文章の調子が一段と明るくなられたことに進歩の跡が窺われますね、などと言うのである
それ、一番ニーチェに言っちゃいけないことだよー(笑)!



自分は最高の言葉の使い手だと、自認するニーチェ。
私自身でさえも『ツァラトゥストラ』を書く以前なら、あのようなことがドイツ語で可能であるという証明を行うことは、最も強硬に断っていたであろう。私以前には、ドイツ語で何を行うことが出来るか――そもそも言葉で何を行うことが出来るかは、誰にも分かっていなかったのだ。
私以前、私以後。



さらには、言葉の使い手でもなくなっているらしいニーチェ。
私は今、ある高い処(ところ)にいるので、もはや言葉で語っているのではなく、稲妻で語っている
詩人。



ドイツ人のヴァーグナーへの熱狂ぶりを、皮肉るニーチェ。
余りに多くの人々が然るべき時期も来ないうちに自分の進路を決定し、その挙句、いまさら投げ出せなくなった重荷を抱えて病み衰えて行く、という運命を背負わされている。……こういう連中が阿片を求めるようにしてヴァーグナーを求めるのである。――ヴァーグナーを聴いて彼らは自分を忘れる、一瞬自分から開放される。……とんでもない、一瞬どころか五時間も六時間も! 
私もローマのオペラ座まで行って寝ました(ワーグナーの『ローエングリン』)



キリスト教に鉄槌を打ち込むニーチェ。
宗教などは愚衆の所轄事項である。宗教的な人間と接触した後では、私は必ず手を洗うことにしている。
「愚衆の所轄事項」って(笑)。訳者の方のセンスも素晴らしい。



宗教や道徳など、世に蔓延するまやかしを決して許さないニーチェ。
私がはじめて真理を発見するに至ったのは、まず嘘を嘘として感じとった――嗅ぎつけた、そのことによってである。……私の天才は私の鼻孔の中にある。
「私の天才は」という言い回しが、ファビュラス!



善人とか善意の人を、徹底的に否定するニーチェ。
善人の生存条件は嘘なのである。(中略)近視眼的なお人好しの人間が手を差し出したとき、現実はいつでもそれを我慢してくれるとは限らないのだが、これがまた善人にはどうしても見えて来ない。(中略)現実というものの恐怖を惹き起こす諸相(情念における、欲望における、権力への意志における)は、小さな幸福のあの形式、いわゆる「善意」などよりも量り知れないほどに必要なものなのである
行け! 善悪の彼岸へ……!





そんな感じで、『この人を見よ』には笑える文章がたっぷり詰まっています。笑えるというのは、馬鹿らしくて可笑しいという意味ではなく、精神が限りなく高揚する、という意味で。私が病気になって精神的にグルグルしてしまった時に、迷わず『この人を見よ』を手にとってしまったのも、この本の持つ強力なエネルギーに触れることで、自分のエネルギーを少しでも高めたかったから。そして、そうすることで、自分にとって決して薔薇色ではない現実世界に、自分をしっかりと繋ぎとめておきたかったから。大袈裟かもしれないけれど、そういう効果が欲しいときにこの本は効くはずです。




ついでにですが、『この人を見よ』のなかで披露されている、ニーチェの女性観がとっても面白かったので、そちらについてもちょこっと紹介。


人はしっかりと自己の上に腰を据えていなくてはなるまい。また自分の両足で毅然として立っていなくてはなるまい。さもなければ、人を愛するなんてことは出来ない相談なのだ。この点は結局、女の方がずっと良く知っている。女というものは、自我がなくてただ単に公平にすぎないというような男には、興味を示さないものである
ふふふ。そうかもね……。



完全な女というものは、自分が愛するときには相手を八ツ裂きにするものなのだ。……私はそういう愛すべき狂乱巫女(マイナス)たちを知っている。……ああ、何という危険な、忍び足で歩く、地下に住む、小さな猛獣! それでいて何とまあ好ましい!
なんと、女を「猛獣」呼ばわり。それでも「好ましい」んだって! 大変だねー(笑)。



女は男より、言いようもないほどに邪悪である。男より利口でもある。女に善良さが認められるとき、早くもそれは女としての退化の一形式である。
かなり女に苦労した模様。



どのようにして女を治療したらよいか――「救済」したらよいか、この問いに対する私の答えを聞いた人はいるだろうか。子供を産ませることである。「女は子供を必要とする。男はつねにその手段にすぎない」とツァラトゥストラも語った。
こんな発言、今の時代だったら確実に闇討ち決定ですよ。ちなみに、「ツァラトゥストラも語った」ってありますけど、ツァラトゥストラを書いたのはニーチェ本人なんですが……。




だけどホントにニーチェって魅力的。ニーチェ本人は知りませんが、ニーチェの書いたものって格別にオモシロい。良い悪いとか正しい正しくないとかじゃない。こんな言い方したら、わかってないクセに勝手なこと言いやがってって思われちゃうかもしれないけど、「凄い芸を見せてもらった!」っていう感動に近いかも。と、ついにはニーチェを「芸人」呼ばわり(笑)。



ついでに言えば、ニーチェはこの『この人を見よ』を脱稿した1888年11月の数ヵ月後、精神的に崩壊し、1900年に病死。でも、この精神崩壊は、必ずしも哲学による精神失調だと断言できるわけではなく、脳腫瘍によるものという意見が大多数だとか。精神崩壊と哲学とをロマンティックにリンクさせられるのは、おそらくニーチェにとっては反吐が出るほど嫌なことでしょう。あんなに、「私の精神は健康だ!」「病気などしたことがない!」「熱だって出ない!」って言い張ってたんだから(笑)。


そんなわけで、超人ツァラトゥストラというヴィジョンを言葉で(稲妻で?)もって具現化したニーチェ。芸人じゃなかったら、何でしょう、幻視家? 妄想家? それもやっぱり違う気がする……と思っていたら、『この人を見よ』の最後の章に、素晴らしい一文がありました。すなわち、

私は人間ではないのである。私はダイナマイトだ。

ニーチェ、わかってる!!! 自分のことは自分が一番良くわかってる。健康ですよアナタは。良かったね、フリードリヒ!

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