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【本】 ものを持つこと、ものを捨てること。  〜ポール・グレアムのエッセイ「もの(stuff)」

2009.09.03 Thursday

近々、引越しを考えています。その際にいつも問題となるのが、「大量の本をどうするか?」ということ。私は全然お金持ちでもないし、買い物大好きっ子というわけでもないのですが、本に関してだけは、できる限り「糸目をつけず」で生きてきました。そんな日々もそろそろ20年あまり、ふと気づいたら、今や、……本に殺されそう! キャー!(←嬉しそうではある)

(画像は、数ある本棚のなかで一番お気に入りの本棚と、お気に入りのふたごのマルちゃん)

というわけで、決めました。蔵書の半分は、実家に置かせてもらうか、欲しい人にあげるか、古本屋に売るかしよう、と。10年読まなかった本はこれからも読まない、と考えよう、と。いや、実際は読む時がくるかもしれないけど、そのときはまた買えばいいじゃないか、本なんて安いんだから! と。

とにかく、たまりにたまった持ち物を減らして、身軽になりたい! 長い年月をかけて付いてしまった贅肉を落として、身軽になりたい! そう話す私に、知人がポール・グレアムのエッセイ「もの(stuff)」が翻訳されているページのURLを送ってくれました。

ポール・グレアム(Paul Graham)は、ハーバード大学でコンピュータサイエンスの修士号と博士号を取得し、フィレンツェの美術学校で絵画を学び、LISPプログラミングの達人であると同時に、後にYahoo! Storeとなるソフトウェアを作り、ベンチャー起業家として成功をおさめた人物。文才にもすぐれ、ネット上で発表したエッセイが話題となり、『ハッカーと画家 〜コンピュータ時代の創造者たち』を出版。この本、もの凄〜〜〜く面白いです!(オススメ!!)

……余談ですけど、欧米ってこういうマルチな才能を発揮する人が多いですよね。今ふと思い出したんですが、ビョークの夫としても有名な現代美術アーティストのマシュー・バーニーも、名門イエール大学で医学をおさめた後、美術と体育を学び、学生時代にはフットボールの特待生でもあったうえに、ファッションモデルもやっていたとか。日本でそんなことをしようものなら、「コレと決めたらコレ以外やるな! いろいろやるのは不真面目だ! オマエは何をやりたいんだ! 二兎を追う者は一兎をも得ずだ!」って言われちゃいますけど、そんな土壌からは、マシュー・バーニーやポール・グレアムのような人材は育たないでしょうね。(ついでですけど、かなり昔に書いたビョーク&マシュー・バーニーの 『拘束のドローイング9』についてのレビューはこちらこちら

それはさておき。このポール・グレアムのエッセイ「もの(stuff)」が非常に面白かったので、以下に紹介いたします(以下、lionfanさんの翻訳文をコピペさせていただきました)(太字は私が勝手につけました)。


「もの」(原題:Stuff)

私はあまりに多くのものを持ちすぎている。ほとんどのアメリカ人はそうだ。 実のところ、貧しい人ほど多くの物を持つようだ。どんなに貧しい人でも、前庭にぎっしり古い車を置いておくことくらいはできるようだ。

いつの時代もそうというわけではなかった。 かつて、ものは稀少で貴重だった。調べる気があれば今でもその証拠が見つかる。たとえば1876年に建てられたケンブリッジの私の家には、寝室にクローゼットがない。当時の人々の持ち物は、ちゃんとタンスに収まった。つい最近の数十年前でさえ、現在よりものははるかに少なかった。1970年代の写真を見ると、家がすごくスカスカに見えるので驚く。私は子供のころおもちゃの自動車を山ほど持っていると思っていたが、私の甥たちが持っているおもちゃの数に比べればかわいいものだ。 私のMatchboxとCorgiのミニカーを一堂に集めると、ベッドの表面の約3分の1を占めた。 私の甥たちの部屋では、空いているスペースはベッドしかない。

ものはずっと安くなった。だがものに対する我々の態度はそれに対応して変わったわけではない。私たちはものを過大評価している。

お金がなかったころ、私にとってものは重要だった。自分は貧しいと思い、ものが貴重に見えたため、私はものをほとんど本能的にため込んだ。友達が引っ越すときものをくれないか、ゴミ出しの夜に道ばたで何か見つけられないか探し(ふと気づけば「全然使えるじゃない」と言ってしまっているようなものには要注意)、ガレージ・セールで、ほとんど新品同様なのに10分の1の値段が付いているものを探す。こうしてほら、ものが増えていく。

実のところ、こういったタダかほとんどタダのものは、コストのほうが価値を上回っており、お買い得ではなかった。それらが本当に必要ではなかったので、ため込んだものの大部分は私にとって価値のないものだった。

私にわかっていなかったのは、新しく手に入れるものの価値は、小売価格と支払った額の差ではない、ということだった。それから引き出せるものこそが価値だったのだ。ものは非常に現金化しづらい資産だ。高価なものを非常に安く手に入れても、売るつもりがまったくないなら、そのものの「価値」にどんな意味があるのだろうか? いくらで買ったにせよ、そのものから価値を引き出すには、使うしか方法はない。そしてすぐに使わないのなら、まず使うことはないだろう

ものを売る会社は、今でもものは貴重だと思わせるために膨大なお金を費やしている。 しかしより真実に近づくには、価値がないように扱ったほうが良い。

本当のところ、ものを貴重なものとして扱うのは良くない。ものをある程度以上ため込むと、逆にあなたがものに捕らわれるようになるからだ。ものをすべて収納できる家に手が出なかったため、引退後の生活を考えていた町に住めなかった夫婦を私は知っている。その夫婦の家は、彼らのものではなく、彼らのもののものである

すごく組織的に収納されているのでないかぎり、ものでいっぱいの家にいると、時としてものすごい憂鬱の材料になりうる。ものにふさがれた部屋では気もふさぐ。その理由の1つは、あたりまえだが、ものでいっぱいだと、人間のためのスペースが少なくなるからだ。問題はもっとある。私の思うに、人は周囲のメンタルモデルを作るために、絶えず自分の環境をスキャンしている。状況の解釈が難しくなるほど、意識的思考のためのエネルギーは奪われる。がらくたにふさがれた部屋では、文字通り心も身体もふさがれるのだ

(この説明で、なぜ子供は大人ほどがらくたを気にしないかがわかる。子供は大人より鈍感なのだ。子供は周囲について大人ほど細かいモデルを持たないので、あまりエネルギーを消費しなくて済む)

私は1年間イタリアに住み、はじめてものが無価値であることに気づいた。私が持っていったものは、大きなバックパック1つ分の荷物だけだった。残りは母国の家主の屋根裏に置いてきた。そしてどうなっただろう? なくて寂しかったのは数冊の本だけだった。1年が終わる頃には、屋根裏に何を置いてきたかを思い出すことさえできなかった。

それでも母国に戻ったとき、ひとつの箱も捨てられなかった。まったく壊れていないダイヤル式電話を捨てるだって? いつか使うかもしれないのに?

思い出すと本当につらいのは、役に立たないものをため込んだことだけではなく、どうしても必要なお金を、必要のないものにしばしば費やしてしまったことだ。

なぜ私はあんなことをしていたのだろう? ものを売りつけることを仕事にしている人は、商売が本当に上手いからだ。フツーの25歳では、ものにお金を使わせようと長年研究をしてきた企業にかなうわけがない。彼らはものを買う経験をすごく楽しいものにして、買い物を娯楽に変えてしまう

どうすれば彼らから身を守れるだろうか? それは容易ではない。私はかなり疑り深い人間なのだが、それでも30代になってもまだ、彼らのトリックによくひっかかった。でも何かを買う前に「これは見てわかるほど私の人生を良い方に変えるか?」と自分に聞けば、ひっかからなくなるかもしれない。

私の友達は服を買う前に「これ、いつも着る服かしら?」と自問することで、服を買いすぎるクセを直した。買うかどうか迷っても「買おうとしているその服が、ふだん着て歩くような限られた数のアイテムのひとつになる」と確信できなければ、彼女は買わない。これはどんな買い物にも有効だと思う。何かを買う前に自分にこう尋ねてほしい。「これを私はいつも使うだろうか? ちょっと見てくれの良いだけのものかな? まさか単にお買い得なだけってことはない?」

こういう観点から見て最悪なのは、あまりに高級すぎてめったに使わないものだ。壊れやすいものほどあなたを束縛する。たとえば、多くの家庭にある「高級磁器」がそうだ。使って楽しむものというより、壊さないようにと神経をすりへらしてしまうもの、というほうがその本質を表している。

ものを新たに手に入れようとする気持ちに打ち勝つもうひとつの方法は、持ち続けていることで必要となる全コストを計算することだ。購入価格は初期費用にすぎない。何年もの間、そのもののことをずっと考えていなくちゃいけなくなる―たぶんこの先一生。持ち物はすべてエネルギーを奪うけれど、奪った以上に与えてくれるものもある。そういうものだけが持つに値する。

今では私はものを貯めこまないようになった。本を除いては――だが本は別だ。たとえていえば、本は個別の物体というよりは液体だ。数千冊の本を持っていても特に問題はないが、種々雑多なものを数千点所有していれば、地元の有名人になってしまうだろう。しかし本以外は、私は現在、努力してものを避けている。お金を楽しむために使うときは、常にものよりサービスに費やすようにしている。

私は何も禅的な悟りの境地からこんなことを言っているわけではない。もっと世俗的な話だ。時代に変化が起き、それに気づいた、というだけのことだ。かつてものは貴重だった、そして今はそうではないのだ

先進国では、同じことが20世紀の中ごろに食料で起きた。食料は安くなり(あるいは私たちがより裕福になったと言っても同じことだ)、食べすぎは、食べなさすぎより危険となった。今はもので同じことが起きている。金持ちであれ貧乏であれ、多くの人にとって、ものは重荷となった。

最後に朗報を。その重荷を知らず知らず背負ってきたのであれば、あなたの人生は今からそのぶん良いものにできると言える。長年、足首に2kgの重りをつけて歩き回っていたのに、突然、それがなくなったと想像してごらん。


ああ、私もそろそろ溜め込む人生から卒業したいです。……と言っても、私の持ち物って言ったって、「本」と「キモノ」しかないんですけどね。しかもポール・グレアム氏ったら、「本は別だ」なんて言ってるし……(笑)。アハハ。

だけどホントに、10〜20代の頃っていうのは、自分にとって何が必要で何が必要ではないか、ということがまだ明確にはわからない模索期間だったと思うのです。そんな時期は、ものを溜め込むのも仕方が無い、いや、むしろそうするべき時期とも言えるでしょう。

でも、30代も半ばにきたら、そろそろ、自分にとって何が必要で何が必要ではないかが、だいたい分かってくるんですよね。人生も残り少ない(かもしれない)し、自分の限界もうっすらと見えてくる。となると、そこから逆算すれば、これは必要でこれは不必要、ということがだいたい分かってくるというわけで。

私も今から徐々に贅肉を落としていって、ワンルームに住めるような身軽な40代になりたいものです。え? フツーは逆だろって? 40代になったら4LDKとか一軒家に住めよって(笑)? まぁ確かにね……。でも、広い家って、維持するのがすっごい大変なんですよね〜〜。実は数年前、6つくらい部屋がある郊外の広〜い一軒家に住んだことあるんですけど、掃除、すっごい大変でした……。だいたい、あっち行ったりこっち行ったり移動が大変ですし。っていうか、結局、1つしか部屋使ってませんでしたし。さらに言えば、その部屋の半径2mぶんくらいしか使ってませんでした(トホホ)。ハッキリ言って、無駄だなと。意味ないなと。自分の人生の目的を見失いかねないな、と思ったものです(大げさかもしれませんが……)。ま、お手伝いさんか、もしくはお手伝いさん的役割を喜んで引き受けてくれる人(奥さん?彼女?)がいるなら、それもいいのかもしれませんけどねー♪

つまり、問題は、自分で把握・管理しきれない「大きさ」や「多さ」、というものは、得になるどころか害になる場合がある、ということなのだと思います。大は小を兼ねるとは言いますけど、確かにそうかもしれないけれど、でも果たして大で小を兼ねさせなくてはならない事って実際そんなにあるのか? そんな一生に何回あるかわからないもしもの時のために小でいいのに大をムリヤリ背負い続ける必要があるのか? と自問してみることも大切なのではないか、と。

もちろん、物事には必ず例外がありますから、「大きさ」や「多さ」で勝負するような人(何かのコレクターとか、荒俣宏的な世界網羅型の能力をもった人とか)も世の中にはいらっしゃいます、ということはちゃんと書いておきたいと思います。念のため。





マルちゃん(右) 「マルちゃんなんか何にももってないから気楽だよ!」



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