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【本】 ニヒリズムの効用について。 〜埴谷雄高「ニヒリズムの変容」を読む

2009.06.01 Monday

唐突ですが、さまざまなものを見たり聞いたり読んだり考えたりすればするほど、脳内宇宙はどんどん広がっていくのに、それと比例するかのように「私」という存在はどんどん遠く小さくなっていく……。そんなふうに思ったこと、ありませんか?



人は、何かを知れば知るほど、考えれば考えるほど、客観的な視座を獲得し、自分をも含めたさまざまな事柄への懐疑に捉えられるようになります。って、えーと、懐疑っていうのは、つまり、大雑把に言ってしまえば、ツッコミを入れるようなこと。他人ツッコミ。あげ足取り。批判。もしくは、自分ツッコミ。自己卑下。もしくは、社会否定。世界否定。

何かを知れば知るほど、考えれば考えるほど、他人も自分も本当に中途半端で愚かでどうしようもなくて、ツッコミを入れざるを得ないような気持ちになる。そんな「すべてを否定する態度」、それを、「ニヒリズム」と言います



なんとなく……、なのですが、今の時代って、情報過多の時代であるがゆえに、「ニヒリズム」に陥りやすい時代のような気がします。ネットで検索すれば、ある程度の知識が手に入るため、さまざまなモノゴトに対する「神秘」や「謎」よりも、モノゴトの「限界」や「欠陥」ばかりが目につくようになってしまう。その結果、「しょせん世の中こんなもん」「しょせんアイツはこんなもん」「しょせん私なんかこんなもん」と見切るクセがついて、一億総批判者のような勢いに……。

といっても、まぁ、たぶん、情報過多だからとか、ネットがあるからとか、そういうことは関係ないのかもしれませんけど。というのは、ネットがなかった時代に学生だった私も、ちゃんと「ニヒリズム」に陥りましたから(笑)。ちゃんとその時代その時代での方法で、情報を得て、知識で頭をいっぱいにして、ちゃんと「しょせん世の中こんなもん」って思ってましたから(笑)。なんて幼かったんでしょう。ほんとに恥ずかしいです。でも、今が昔と違うのは、そうした未熟な発言をまるで一人前であるかのように正々堂々と発表?できる場所がある、ということかもしれませんが(笑)。



まぁそんなふうに「ニヒリズム」に陥ると、何をやっても無意味なような気がして、何をやってもどうせ何にもならないような気がして、一歩も動けなくなるのです。知識や情報だけはやたらとあって、理想もちゃんとあるのに、しかしそのせいで自分はまったく動けない(笑)。ニヒリズムって、コワイですね〜。



だけど、そんなふうに「すべてを否定する態度」をキープしたまま生きていけるはずもなくて。すべてを否定するのならば、自分という存在も否定しなきゃいけない。究極を言えば、「ニヒリズム」を徹底するなら、最後は死ぬしかないのですよ。そこまでやらないくせに、「すべてを否定……」なんて言ってたって「それは単なる子供の戯れ言じゃないか?」って、いつか思わないとおかしいですよね。だって、そんなこと言う自分は、まぎれもなくのうのうと、いや、ピンピンして生きているわけですから。そして、今後も生きていく気マンマンなのですから。「矛盾してない?」って、そこにこそツッコミを入れるべきでしょう(笑)。

というわけで、結局は、否定のなかから肯定を生み出さねばならなくなります。それを他人が、「諦め」と呼ぼうが、「転向」と呼ぼうが、「変わったねー」と言おうが、「キャラ変えた?」と言おうが、そんなことはどうでもいいのです。だって、そのひと本人の問題ですもの。

それについて、埴谷雄高は「ニヒリズムの変容」(収録『埴谷雄高 思想論集 』)のなかで、以下のように書いています。
さて、私達は次第にニヒリストたる或る部分を失ない、或いは、諦観した哲学者として、或いは、科学的と自認する社会主義者として、或いは、到達不可能な夢幻を描く詩人として、の輪郭を明らかにしてくるようになる

(中略)

青年が壮年へ、さらに老年へと推移するにつれて最も変化し易いのは社会に対する反逆の姿勢である

(中略)

私は、さきに、ニヒリズムの性格として反逆を無造作に設定したが、これは、いってみれば、すでに歩きだしたニヒリズムのかたちともいうべく、否定の裏側に肯定を含むところの或る種の変容がすでにそこになければ、ニヒリズムから反逆へと繋ぎあわせることはできないのである
「ニヒリズム」は、なにも特別な人の特別な現象ではありませんよね。「ニヒリズム」は、現代においては、子供から青年に、青年から中年になる成長過程の、ひとつの通過儀礼のような気がします。といっても、人によっては、それがかなり長期間にわたることもあるし、一生その地点に居続けることもあると思いますが(←それはそれで意識的に徹底すれば、ある種の「芸」になり得ますが)。

で、その「ニヒリズム」から「反逆」へと変容する際に、ニヒリズムのある部分が失われなければならない、と埴谷雄高は書いています。それは、
その失われた部分とは、漠然たる未来についての肯定にかかわるところの部分
だと。そう、つまり一言で言ってしまえば、「今後も生きていきたい」のか、「もう死んでもかまわない」のか、結局どっちなんだかハッキリしろ! ということなのかもしれません(……かなり大雑把ですいません)。



でも、この「ニヒリズム」の体験というのは、決してムダなことではないと思うのです。自分の話でいうと、ああいう時期があってよかったと、常に思います。何ていうんでしょう、ああいう自己否定や世界否定のエネルギーって、もの凄いんですよ……(笑)。マグマみたいなもので。それがまだ体内にある感じ、薄れているし、その上にサラサラの砂をかけて、緑のオアシスをつくって、平和そのものに見えてはいるものの、その下にはまだ熱いものがあって、何かのきっかけがあれば吹き出してきそうな感覚。そんな「緊張感」を常に自分のなかに感じていることで、うまく生を保っている何か、っていうのがあるような気がするんですよね。うまく言えませんが、これが無かったら、さぞかし生きていても味気ないだろうなぁ、と思ったりもするのです。って、自分で中毒してるだけの可能性高いですけど。でも私、ほかの人になったことないので、これでいいんだと思ってます(笑)。

最後に、埴谷雄高のステキな一文を。
ニヒリズムは、従って、私達の青春の出発点であるとともに、自らを変容することによって或る事物を変革するバネともなることが記憶されねばならない。あらゆる変革者はその暗い海底部に原型としてのニヒリズムのかたちを隠し持ちつづけなければ、変革者としても持続し得ないのである。





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