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【本】 『唾玉集』 〜明治の芸者の、ステキに強気なお洒落と発言について。

2009.03.23 Monday

先日読んだ東洋文庫の『唾玉集(だぎょくしゅう) 〜明治諸家インタヴュー集』が非常に面白かったので、ご紹介。

東洋文庫とは、平凡社から刊行されている、広義でのアジアの古典名著を一大集成したクラシック・ライブラリ・シリーズ。古典好きなら必ず一冊はお家にあるのではないか、というほどの好事家垂涎のラインナップです(ちょっと高価なのですが)。

で、この『唾玉集(だぎょくしゅう)』には、「明治諸家インタヴュー集」というサブタイトルがついています。そう、この本は、文芸雑誌「新著月刊」に連載された、著名人へのインタビュー集。インタビュー時期は、明治30〜31年(1896〜1897年)。編者は、伊原青々園、後藤宙外。

インタビューイーには、尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外、坪内逍遥、斉藤緑雨、広津柳浪、饗庭篁村などの当代随一の人気作家たちが勢ぞろい! ……だけじゃないところが、本書のおもしろいところ。そのほか、三井呉服店(現・三越)理事の高橋義雄、日本橋橘町の呉服問屋大彦の当主、芳町の人気芸者だった千歳米波(もと米八)、4代目清元延寿太夫とその妻清元お葉、5代目清元延寿太夫、歌川派浮世絵師の落合芳幾(一澪慄Т)、さらには、新聞探訪者(記者)、女髪結い、探偵、佃島の漁師、ついには、おもちゃコレクター(!)にいたるまで、様々な人々にインタビューを敢行!! この好奇心にまかせた節操のない人選(笑)、ステキです!



で、私が特に面白いと思ったのが、芳町の人気芸者だった千歳米波(ちとせべいは)のインタビュー。
「今の芸者の風儀と昔のとは其れァ変ッて居りますとも、(中略)マア早い所が、今の芸者は花魁(おいらん)ですね、………しかし若い者が威張るッて、悪いとばッかりは言へません、私に言わせると理窟がありますね、つまり躯を売ッて居るから………ね、爾(さう)でせう、大切な躯をやすやすと任せて居るから、其れだけの権式を持ちませう、老妓(こっち)はそんな猥褻なことは致(し)ないから、致やうたッて客の方が寄りつかないから、芸も骨を折り、立居挙動にも気を附けて勤めないぢやなりません、老妓(こっち)は座敷で気骨を折るだけ、若妓は床で体を苦しめますから、詰り同じこッてす(中略)こう考へると、私は若い者に威張られても、悔しいとも思ひませんね」
「今の若い者は〜」式の言説がもちあがるのは、いつの時代でも同じこと。今から2200年前のロゼッタ・ストーンにだって、象形文字で「今の若者はなっていない、嘆かわしい時代になったものだ」と刻み込まれているくらいですから。いつの時代も、同じ。

明治30〜31年(1896〜1897年)のこの時点で、既にもう若くはない米波姐さん、「今の若い芸者ときたら芸もないし、お座敷の取り持ちもなってない、なのに若いってだけで威張っちゃって、でもまぁそれもしょうがないね、枕仕事が大変なんだと思えば威張られてもわたしゃ悔しくなんかないよ」と言っているわけですね。……気強いなー。でも、この気の強さ、キライじゃないなー。というか、好きだなぁ。

でも、この米波姐さんだって、若い頃は散々に生意気だったはずなのです。有名な侠客の娘で、若い頃は米八(よねはち)という名で出ていた、芳町の売れっ子芸者。それはもう、散々に突拍子もないことをやってきたはず。というか、若いってフツウにそういうことですから。



本書のインタビューでも、米波姐さん、全盛だった当時のやりたい放題気味の粋なキモノファッションについて、楽しそうに語っています(キモノ好きは必読)。
「芸者の衣裳ですか、(中略)爾(さう)ですね、マア藍微塵(あいみじん)茶微塵(ちゃみじん)てな物を多く着ましたね、年は幾歳(いくつ)でも長襦袢は緋縮緬にきまッて居ました、曙染(あけぼのぞめ)の着始めは妾(わたし)と阿園さんとでした」

「其の頃流行の着附は古渡唐桟(こわたりとうざん)の藍微塵で、着替の衣裳はみな襟を掛けたものです、其れで帷子(かたびら)でも素肌へ着たもんで、奈何(どんな)上等の着物を着やうと襦袢を重ねるのは野暮だ鈍痴気(とんちき)だと云ッたもんですね、だが今ぢや、お召縮の単衣でも襦袢を着ますが、昔しは左様な事はありません」
……という米波姐さんの粋な着物ファッションについて、少々解説いたしますね。

当時(明治時代半ば頃?)の流行は、藍微塵(あいみじん)、茶微塵(ちゃみじん)の、古渡唐桟(こわたりとうざん)だったとのこと。これ、もの凄く、異常なくらい、地味なファッションです。唐桟とは、綿のくせに非常に高価(なぜならインドやアジアから輸入したものだから、というのが一応建前)な木綿生地、色はジミ〜な藍や茶、模様は目を近づけてよーく見ないと見えないくらい細かい「微塵」と呼ばれる格子縞。一方、下着である長襦袢は、明らかに高価な絹の縮緬地に、色はヴィヴィッドな緋色(鮮やかな赤)、模様は「曙染め」といって、上に行くにしたがって濃くなる華やかなぼかし模様。

つまり、「着物は地味。だけど、下着は派手」、「着物はカジュアルな生地(綿)。だけど、下着はエレガントな生地(絹)」。こういう、パッと見ではジミに見せておきながら見えないところに贅や華美を尽くす、そんな美意識を「」と言うのはご存知の通り。そうそう、余談ですけど、よく「着物は見えないところにオシャレをするものなんですよ」とか言いますけど……、あの、別に着物がそういうものというわけでもなく、「見えるところにこれ見よがしにオシャレをする着物文化」も地域や時代によってはある、というか、むしろそっちのほうが多いと思うのですが。だって、オシャレって、基本的には「自分を飾って良く見せたい!」という「見栄っ張り精神」から来るものですから。そう考えると、江戸時代後期の江戸町人の特殊な環境から生まれた「粋」という美意識は、オシャレ文化の中でも、ある意味で行き詰まりの変り種の、珍種みたいなもののように思います。なので、そういう特殊な美意識を、誰も彼もがありがたがる必要はないのではないか、という気が、すごくしてます(笑)。いや、こんな禁欲的、自虐的、反語的なヒネた美意識が一般にまで広まるなんて、凄いことだ、と思うんですけど(個人的には私は大好きですけど)、でも「こんなのつまんないや」って思う人がいたって、全然いいと思うんですよね。

そして、さらに注目したいのが、「帷子(夏の薄物)に襦袢を重ねるなんて野暮、薄物や単衣は素肌に着るべきである」という考え方。これ見よがしに高価であったり華やかであったりゴテゴテと飾ること、を野暮とする「粋」という美意識においては、「素であること」、たとえば「素肌」「素顔」「素足」が非常に尊ばれていました。白粉も薄く塗って素肌を自慢したし、冬でも裸足がカッコいいとされていた。でもこれは、わかる気がします。肌色のストッキングはくんだったら、素足のほうがカッコイイと私も思いますから。


そんなわけで、ジミな「粋」づくりファッションで、婀娜な芸者をやってた米波姐さんですが。でも、やるときゃやるわけで! 以下!
「黒革威(くろかわおどし)の米八と云はれたのは其の頃のこッてす、金ばかしで縫ひ潰しの帯をしめたのが評判になッた事もありました、彼(あ)の時の金で八十両も掛ッたッたでせう、今ならば、マアニ三百円にも当りませう、尋常の帯は十五両位のもんでしたらう」
縫い潰しというのは、表を全部縫いで覆ってしまう贅沢な刺繍の技法のこと。それも、金糸で。そう、つまりこの帯、ゴールドの糸だけで縫い潰したギラギラ帯、なのです! まるで、月影屋のスワロフスキー☆ギラギラ帯みたいじゃないですか〜(→こちら)。ゴールドに輝く帯をキュッと締めて、ゴージャスにバッドテイストに、ギラギラしくバカバカしく、「あたしが芳町の米八だよ!」とばかりに、さぞかし目立ちまくってたことでしょう。若気の至りって、いいなぁ。カワイイなぁー! 絶対、年上の姐さんたちから「今どきの若い者はねぇ」「私が若い時はあんな下品な帯をする妓はいなかったよ、世も末だね」なんて言われてたに違いありません。間違いない。

ですので、お若い方々、あまり年長者の言うことは気にせずに……! 気にしてると、損することが多いです。だってバカなことやるには、若くないとサマにならないんですもの(笑)。何だカンだと年長の人々が言うのは、バカやって失敗するのを本気で心配してくれるのが半分、自分がバカやってももうサマにならないことからくる嫉妬が半分、です(私見によると笑)。でも若いなら、「バカやって失敗する損」と、「バカやってサマになる機会をみすみす逃す損」だったら、前者の損をとるべき。もちろん、サマにならなくても気にせずバカなことやる、っていうのが、さらに一段階上の「サマになる(上級編)」なんですけどね、ホントは!(例えば、ピエール瀧とか……って、そんなんでいいのか笑?)



でも、現実は容赦なく変化します。

この芳町の売れっ子芸者、もと米八、後に米波となった姐さんも、この本書のインタビューのときには、自称「老妓」。そんな米波に、当時、超人気作家だった尾崎紅葉がこんな発句を送ってきたそうです。
「秋雨にとくや米波の白髪染」
その横にその句のココロが添えてあった。そのココロとは、「こんな雨の日に、白くなった髪をといて、白髪を染めて、昔を思い出すとさぞ心が淋しかろう」という意味で……。

尾崎紅葉はその時、おそらく29〜31歳くらいだと思うのですが。全盛を過ぎた淋しい老女を慰めたつもりかもしれませんが、時代なのか、随分な慰めよう……っていうか、ヒドくないですか?! 今の感覚からしたら、男として人間として鼻ツマミ者ですよ。もし私が米波姐さんだったら、「そんなことを女に仰るなんて、随分失礼だとお思いでないかい? ちょっとばかり若くていい男だからってナメたら承知しないよ! 私がアンタと同しくらい若かったら、アンタには情けの涙をかけてあげるくらいが関の山だよ!」とまぁ、このくらい思うのではないかと、明治の気の強い美人芸者に成りきって想像してみました。

と思ったら、やっぱり米波姐さんもちょっとカチンときたらしく、インタビュアーに向かってこう言っています。以下。
「私は其の返事を(尾崎紅葉に)遣りましたね、何、些(ちッ)とも淋しいことアない、此の通り女は美(よ)し、何と云ッて芸ぢや出来ないてえものアなし、調子はよくッて、程が宜(い)いと来てるから、奈何(どう)か仕やうと思やア、若い男の三人位情夫(いろ)にするのア訳はない、些(ちッ)とも淋しいことァない、今まで此の白髪でもなけア、男の三人位はきっと死んでるんだが、此れがあるばかりで、側(はた)に怪我人も出来ないで済んでるから、中々安い白髪ぢやアないッて、爾(さう)云ッて遣りました」
カッコイイ!!!! 気強い!!! このくらいの啖呵を切られれば、怖いものナシですよね!! 日本版マドンナと呼びたい! この、果てしなく壮大な自尊心と、限りなく軽妙な洒落心。この2つの心は、どんなときだって絶対に手を離してはいけないんだなぁ、と、改めてそう思ったのでした。




◆芳町(よしちょう)
 葭町とも。現・日本橋人形町あたり。
 江戸時代には陰間茶屋が流行り、明治以降は花街として栄えた場所で、
 芸に優れた多くの名妓を輩出。美人芳町芸者・三子の画像はこちら
 明治時代に名妓とうたわれた貞奴も、芳町の置屋「濱田家」出身。
 現在、「濱田家」は料亭として営業中(ミシュランで三ツ星獲得)。ミッドタウンに支店も。
 芳町芸者・久松さんのサイトはこちら

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