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【歌舞伎】 『藤娘』と涯てのない世界。  〜もしくは、事なかれ主義とムラ社会主義。

2008.10.21 Tuesday

最近の若者はけしからん的言論って、よく聞かれますよね。たとえば、代表的なところでは、「最近の若者は年寄りに席を譲らないからけしからん」「最近の若者は無気力で夢がなくてけしからん」みたいな。でもそれって、実は、年齢とか世代とかってほとんど関係ないんじゃないのかしら……と、なんとな〜く思っていた私。

というのは、人間におけるあるメンタリティっていうのは、実は親から子へ受け継がれていくことが単純に多いものだと思うし(遺伝という意味ではありません)、もちろん親ではなかったとしても、成長過程において目上の人(大人)からさまざまな言語的あるいは非言語的メッセージを受け取り、それを内面化させていく結果、あるメンタリティを持つに至る、ということが想像以上に多いものだと思うので。それが若い人であればあるほど、なおさらですよね。もちろん、TVやゲームや漫画などからの影響も大きいと思いますが、それを作っているのは間違いなくコドモではなく大人ですから、同じことです。

だから、もし若者がお年寄りに席をゆずらないんだとしたら、単に親や大人がお年寄りに席をゆずらないからなんじゃないの? もし若者が無気力で夢がないんだとしたら、単に親や大人が無気力で夢がないからなんじゃないの? 大人ができないことは、若者もできないだけ、っていう、もうウンザリするからあまり考えたくないってほど単純な話なのでは? と薄々思っておりました。そんなところ、やっぱりね…と思う出来事に遭遇しました。

先日、歌舞伎座に昼の部を見に行ったんです。この日はたまたま1等席、2階の西桟敷の近くの前から5列目でした。「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」の重の井の段でホロリとし、「奴道成寺」の踊りを堪能し、「魚屋宗五郎」でクスッと笑った……んですが。西桟敷席に座ってる初老の女性が、うるさい。20代とおぼしき若い女性と座っていて、その女性に話をするときの声が、ハンパなくデカい。かなり席が離れている私にもハッキリと聞こえるくらいの声で「あれ、あの子供とあれの関係がよくわからないって? イヤホンで言ってない?」とか、「あ〜、出てきたよ、あれが菊五郎ね。何代目だっけな」とか大声でしゃべる。かなり気になったのですが、私も席遠かったしそのままにしておりました。

今月の昼の部のトリは、今年80歳になり、傘寿(さんじゅ)を迎えた7代目中村芝翫(成駒屋)がつとめる『藤娘』。ご存知ない方のために念のために書いておきますと、『藤娘』の衣装はものすごく重いし、日本舞踊はずっと空気椅子状態で踊るようなもので非常に体力が必要です。それを80歳で踊るって、凄いことですよ! 

そんなわけでさーっと幕が開くと、あたり一面、藤の花。現れた芝翫は、美しい藤の衣装に塗り笠をかぶって登場。うわ〜っと、歓声が挙がりました。すると。またしゃべり出したんですよ! その西桟敷席の初老の女性が。しかも、「よーく見てごらん、あんな格好してるけどフツーのおジイちゃんだから」とか、しかも隣にいた20代女子が飽きちゃって帰ろうとしたみたいで「え? つまんない? あ〜私もどうしようかと思ってね〜」などという非常識なことを、場内に響き渡るほどの大声でしゃべり出すではないですか! 私はとにかく、舞台で一生懸命に若い娘になりきって踊っている芝翫に聞こえていませんように!! と祈るばかり。っていうか、「静かにしろ!」と言いに行こうか、でも席も遠いしどうやってあそこまで行ったらいいのか……とソワソワしてるうち、おそらく周囲の人々の顔が一斉にその初老の女性に向ったからでしょうか、東桟敷にいたスタッフが気づいてわざわざ西桟敷までやってきて注意をし、やっと事なきを得たのでした。

しかし。私がこの一件において、非常に違和感を感じたのは、この最悪な初老女性の言動ではありませんでした。こういう困った人っていうのは、一定の割合でどうしてもいるものなんですよね。劇場であれ、電車であれ、街であれ、会社であれ、学校であれ。変な人って、一定の割合で、いる。いつも自分が恵まれた素敵な環境にいられるなんて、思ってはいけません。そんなことは滅多にない。お姫様じゃあるまいし……って、お姫様だって恵まれた環境にいられないくらいなんですから、日本では(プリンセスMを見よ)。だからこそ重要なのは、そういう出来事に遭遇したときに、どういう対処をとることができるのか、ということだと思うのです。

で、この歌舞伎座で私が「なんで?」と思ったのは、その最悪な女性2人を、周囲にいた人々が誰一人、注意しなかったこと、なんです。本当に、誰も、誰一人、動かなかったんですよ。周りの人が。それが本当に本当に、不思議で。その周りにいた人っていうのは、もちろん全員、大人です。ほぼ女性で、男性も少しいましたが。みんなその初老の女性を不審気に眺めつつも、誰も何も言おうとしませんでした。私が近くにいたら、迷わず「すみませんが、静かにしていただけませんか?」と、怒らせないよう下手に出つつお願いすると思うんですけど……。

どう考えても他人を不快にさせる言動をとっている人、どう考えても非常識な言動をとっている人、どう考えても間違った言動をとっている人を目の前にして、何もせずに知らないフリを決めこむ、って、どういう心理なんでしょうか? だって、あきらかに自分だって不快だし、あきらかに周囲の人も不快なのに。ちょっとその心理状態を考えてみました。以下。

1.注意をしたら相手が何をするかわからなくて怖いから、知らないフリをする。
2.自分だけが目立つのは嫌だから、知らないフリをする。
3.自分だけがイイ子ぶるのは恥ずかしいから、知らないフリをする。
4.自分だけが正義の味方ぶると反感を買うから、知らないフリをする。

こんなとこでしょうか。これらを分析してみると、1は、どうなるか分からないような事は怖いから、できるだけ避けて何もしないっていう、「事なかれ主義」。2と3と4は、“みんな一緒”の強要と、その裏返しの自分と違うヤツは無視して排除っていう、「閉塞ムラ社会主義」。多くの日本の人々は、この2つの幽霊に金縛りになって何もできずにいる、ということのような気がするのです。本当は幽霊なんか、いないのに。

ま、もしホントに「事なかれ主義」と「閉塞ムラ社会主義」という幽霊がいるんだとしても、コイツらは幽霊のなかでは最も地位が低い連中だと思いますけど。だって水木しげるによると、妖怪にも序列があるそうで、一番エライのは「ぬらりひょん」だそうですから。ぬらりひょんって、「忙しい夕方時などに、どこからともなく家に入ってきて、お茶を飲んだりするなどして自分の家のように振舞い、そのあまりの自然さのために誰もが家の主と思ってしまうため、追い出すことができない」のが特徴だそうですから(笑)、ビクついた「事なかれ主義」とかしみったれた「閉塞ムラ社会主義」とは正反対。やっぱり一番エライのは、他人の目など気にせず自分の意見(?)を表明して行動する、ですよ。それがぬらりひょんと同じだと言っていいのかどうかはわかりませんが(笑)。

そんなクラースの低い幽霊に金縛りになってしまってる人々。ああ。運悪く、そんな親や先生や上司や大人に囲まれちゃったら、そりゃあ「無気力で夢がない」人間になるしかないですよねぇ、可哀想に。もちろん、そうじゃない人々に囲まれて育った若者はヤル気に充ちてるのかもしれないし、そりゃあ当然、最終的には自分次第ですけど、でもそんなことに気づくことさえできずにいる、っていう場合も多々ありますから、現状はそう楽観的に「ま、なんとかなるでしょ」という訳でもないんだろうなぁ、と。

でもいつも思うのは、それぞれが自分の意見を口に出せるということ、それぞれの意見は一旦は聞いてもらえるということ、意見が受け入れられない場合は議論ができるということ(言い負かし合いではなく)、こういったことが普通になる世の中に、せめてならないものかな、ということです。上記の3つのことって、まともな大人のコミュニケーションの基本だと思うんですが……、でも日本では非常に難しいですよね。言ったら最後、総スカンとか、やったら最後、村八分、みたいな。

でも、こうしたコミュニケーションの基本さえも成立していないとしたら、たぶん、また年金どっかいっちゃった問題とか、また毒入り米売っちゃった騒動とか、また鬱憤たまって無差別に殺しちゃった事件とか、また可愛がりによって誰か死亡(相撲海軍ほか業界問わず)ってことになりますよね。だって、こうした問題の根本にあるのは、「事なかれ主義」と「閉塞ムラ社会主義」の2大柱ですから。

でももしかして、そうやって日本という国は、ゆるゆると没落していくのかもしれませんね。特に他国に攻められてもいないのに、国内幽霊によって滅んでいく国……。敵は内にアリ。自分の敵はいつだって自分。まぁ、国の運命としては、没落もアリだとは思います。ローマ帝国や大英帝国のように。って、日本がローマ帝国や大英帝国ほど繁栄していたかどうかは別として。でも江戸時代まで遡れば、かなり繁栄していたとも言えるのかもしれません。とりあえず、日本という国の繁栄のピークが1980年代だとか思うのはやめて欲しいですね。それ、違いますから。



そんなことを考えながら、『藤娘』を見るはめになってしまったのでしたが……。にしても、こんな素晴らしい演奏と、唄と、舞台装置と、衣装と、踊りと、芸と役者と。それを目の前にして、何も感じられない人や、何も感じようとしない人がいる、その事実。それは、一方でいくら心を尽くして演じている人がいようが、いくら心を動かして見入っている人がいようが、関係なくて。

でも、そういうものかもしれません。他人の無理解。コミュニケーション不全。孤独。……って、舞台を見ているうちに、「そんなの当たり前のことじゃないの?」という声がどこからか聞こえてきました。その声は、舞台の上の藤娘から聞こえてきたのでした。80歳の男性が恋する若い娘に扮し、何枚も重ねた重い衣装を背負って何百人という人の前で『藤娘』を踊るということ、これが孤独じゃなくて一体何だろう? いや、舞台と観客の心が一つになることって、あると思います、私もそう感じる瞬間は何度もあります。でも、私が言いたいのはそういうことではなく、その一瞬のためにひたすら稽古をし、時間を積み重ねてきた人の、その膨大な孤独のことで。

そんな人の孤独は、心ない人の存在や心ない言葉さえも飲み込むほどの、底知れない深さがあるはず。そう、ブラックホール並みに、すべてを飲み込んでしまうほどの孤独って、ある。そして、そういうものをかいま見てしまうことも、あるんです。坂口安吾の名作『桜の森の満開の下』で言うところの、「涯(は)てのなさ」。安吾の小説では桜の森の満開の下でしたが、『藤娘』では藤の花の満開の下、そんな「涯てのなさ」をふと見た気がしました。こういう涯てのない領域がこの世の中にあるんだと、確信できることそういう涯てのない領域を確信したら、それを心のなかにとどめておくこと。そのことによって、目の前の出来事を包みこむ空間が、通常の三次元ではなくいくつもの奥行きを持った多次元の世界へと変化し、それによって、別の視点や基準や枠組みで物事を眺めることができるようになる。そんなふうにも思います。そうすれば、少なくとも、しみったれた幽霊やケチくさい幽霊に取り憑かれることも減るのではないか、と思うのですが……。
いつまでも 変わらぬ契り 掻い取り褄で 
よれつ もつれつ まだ寝が足らぬ 
宵寝まくらの まだ寝が足らぬ 
藤に巻かれて 寝とうござる
なんていう『藤娘』の色っぽい歌を聴きながら、藤娘のどうにもしようがないつれない相手への“恋の嘆きブラックホール”に引き込まれつつ、そんなままならない恋なんかも、涯てのない領域に突入しちゃうと、何か「別のもん」になっちゃってるんだろうなぁ、なんて思いました。ぶっちゃけ、その男どーでもいい、くらいの(笑)。じゃあなんで嘆き悲しんでるんだ? っていう(笑)。そういう多次元ゆえの不条理さって、いいなぁ。大好き!! そういう世界を求めて、私は毎月歌舞伎座に通うのでした。(ええ、勝手な解釈ですけどねー)




十月大歌舞伎 in歌舞伎座 
10月2日(木)〜26日(日)まで。

昼の部
一、「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」
   重の井
    ・由留木家の息女 調姫(いやじゃ姫) 片岡葵(亀蔵の娘さん)
    ・調姫の乳人 重の井    福助
    ・馬子 自然薯の三吉    小吉
    ・入間家の家老 本田弥三左衛門(赤じじい) 家橘

二、「奴道成寺」(やっこどうじょうじ) 常盤津連中・長唄囃子連中
    ・白拍子花子、実は狂言師左近 松緑         
    ・所化    松也
    ・所化  尾上右近

三、「新皿屋舗月雨暈 魚屋宗五郎」 黙阿弥/作
    ・魚屋宗五郎         菊五郎
    ・魚屋宗五郎女房 おはま   玉三郎(初役)
    ・魚屋宗五郎父 太兵衛    團蔵
    ・魚屋の小奴 三吉      権十郎
    ・磯部主計之助        松緑
    ・磯部家の御殿女中 おなぎ  菊之助
    ・磯部家の家老 浦戸十左衛門 左團次

四、ご贔屓を傘に戴く「藤娘」 長唄囃子連中
    ・藤の精    芝翫



 
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